2007年の風景/「父子」の絆(2)<本当の父親になって>
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伊志嶺吉盛(53)の、この言葉に祖父武弘(68)は
「ハァ?」
と答えるしかなかった。夕日色に日焼けした武弘は漁師として生計を立てている。身長175センチを超える偉丈夫である。沖縄海人(うみんちゅ)として生き抜いてきた体躯(たいく)は頭に白いものが目立ち始めたとはいえ、シャツの下からのぞく太い鎖骨と肩の作りが単に体だけではなく、精神の強靱(きょうじん)さをもうかがわせる。その武弘にしての絶句である。
2、3分の沈黙が流れた。だが、結論は予想外に早く出た。
「監督、あんたに預けるよ。全部、もらいなさい」
その思い切りの良さは南方の、おおらかな島民性からのものなのかは、分からない。ただ、大嶺が生まれ幼年時代に、両親が離婚した事実はある。3歳ころから育ての親になったのは祖父母だった。「孫だからね。そりゃかわいい。かわいがって育てたが、それがこの子の将来につながるものなのかどうか。それならば実の父親ではないが、野球を通じての本当の父親になってもらいたかった」と武弘はあっさり結論を出した。伊志嶺は「祐太の持って生まれた能力を埋もらせるわけにはゆかない」が本音だったが、それ以上に懸念したのは「じいちゃん、ばあちゃんに甘やかされて育ったこの子は、野球をやっていなければ遊びほうけて、まともな生活をしてゆけない」という思いだった。
自身が母親のでき愛を受け、中学時代には欲しいものは何でも与えられた。「エレキギターを買ってもらいましてね。ベンチャーズ、加山雄三…まだ目が飛び出るほどギターが高い時代です。決して裕福な家庭ではなかったが、わがままいっぱいの人間」にどんな人生が待っているか。スポーツ店、水産業、運送業、内装業、花店…。2、3年周期で職を転々としたのは、好きな野球をやるための時間をひねり出す方策ではあったが、野球以外は何をやっても中途半端だった。
伊志嶺は78年、八重山商工の監督を引き受けたものの、この時の6年間は沖縄県大会ベスト8が最高で、80年をピークにチームは衰退していった。
それが94年、少年野球チーム「八島マリンズ」を引き受けるとにわかに名監督の道を歩き始める。96、97年と徳島で行われた大鳴門橋学童軟式野球大会で連覇すると、01年の高円宮杯全日本軟式野球大会で日本一。八島小学校正門脇にある石碑はその時の顕彰である。さらにこの年の公式戦は40連勝、練習試合を含めると実に140連勝無敗という快進撃であった。もちろん、大嶺祐太ら昨春夏の八重山商工・甲子園メンバー8人はこの時の選手である。
一方、98年に立ち上げた中学硬式野球チーム「八重山ポニーズ」はアジア大会を制し、日本勢としては17年ぶりの世界大会出場権を得るまでになった。大嶺も中学生になっており、その意味では、小中高一貫教育で甲子園切符をつかみ取ったと言えなくもない。
それほどまでに伊志嶺を駆り立てたのは、彼自身の周辺にも大きな変化があったからでもある。95年に実母節子が突然死去。それだけではなかった。「祐太をくれ」と言い出すきっかけになった、もう1つの理由、事件が彼の周辺で起きる。
ふむふむ。次が楽しみ。