ロッテ・黒木、涙の引退…現役続行希望も他球団オファーなし
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大きな瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。時折、声が震える。黒木が静かに右腕を下ろした。
「戦力外となった後、(他球団からの)オファーを2カ月間待ったが、現実は厳しかった…。引退を決意しました」
10月2日にロッテから戦力外通告を受けた後、現役続行への強い意欲を示していた黒木。待つだけ待った。しかし、声がかからない。「残った(選択肢の)中でベストな形が引退だった」。最後は消去法。無念の思いを口にした。
それでも、黒木は必死に顔をあげる。自らに言い聞かせるように、今後の去就について切り出した。
「自分は(千葉)マリンスタジアムでファンの後押しで育ててもらった。今後は野球をいろんな方に伝えられればいい」。プロ野球解説者などで第2の人生をスタートさせる。
栄光と挫折の野球人生だった。1995年に当時の新王子製紙春日井からドラフト2位で入団し、98年には最多勝利と最高勝率のタイトルを獲得した。
一方、その年の7月7日、当時のプロ野球連敗記録の「16」に並んでいた瀕死(ひんし)のチームを救うべくオリックス戦(神戸)のマウンドにあがったが、九回二死からまさかの同点2ラン。マウンドでガックリとひざをつき、号泣した。そんな熱い男だからこそ、ファンに愛されてきた。
01年途中に右肩を痛めてからは、全盛期のようなキレのある直球は戻らなかった。ここ数年は不振が続き、ついにそのときが…。13日の34歳の誕生日を前に、けじめをつけた。
「この引退会見で、現役としてやり残したことはなくなった。きょうが区切り。あす(13日)からは野球振興のため、がんばりたい」
記録より記憶に残る男。ステージが変わってもジョニーの熱い心は変わらない。
■黒木 知宏(くろき・ともひろ)
1973(昭和48)年12月13日、宮崎県生まれ、34歳。宮崎・延岡学園高から新王子製紙春日井を経て95年ドラフト2位でロッテ入団。2年目に先発ローテ入りし、97年から5年連続で2ケタ勝利を挙げるなどエースとして活躍。00年には日本代表でシドニー五輪に出場した。01年7月に右肩を故障。以降は出場が減り、今季は1試合の登板にとどまった。1メートル78、84キロ。右投げ右打ち。既婚。今季年俸1600万円。背番号54。
★黒木に聞く
――今の心境は
「戦力外通告を受けてから2カ月間、いろいろな選択肢があった。その中で選択肢が1つ消え、2つ消え…。残されたのが引退。自分の中で整理が付いた」
――海外でのプレーや野球浪人は考えたか
「そういうことも考えたが、いずれはユニホームを脱ぐ。それが1年早いのか1年遅いのか…。決断に悔いはない」
――戦力外通告を受けた直後の心境は
「“つらい”というのを感じた。11月末まで他球団のオファーを待とうと思ったが、現実は厳しかった。プロ野球選手として興味を示してもらえなかったのは、自分の力不足です」
――今後は
「未定だが、野球を違った角度から見て、野球(解説者として)ファンに伝えなければいけない。野球で恩返しするのが人生の課題」
――ファンに引退のあいさつができなかったが
「『ありがとうございます』といえなかったのは残念。現役にこだわっていたので仕方ない」
――家族は
「面と向かって『引退する』と話すのはつらい。自分から話すことはなかったが、今朝、彼女(夫人)からメールで『おつかれさま』という言葉を頂いた」
――一番の思い出は
「(九回二死から同点本塁打を浴びた1998年の)7月7日と18連敗。その経験を伝えて、野球の素晴らしさや怖さを発信しないといけないと思っている」
――ファンにひと言
「13年間、素晴らしい経験をさせてもらった。皆さんの声援で、黒木という人間を育ててくれたことに感謝している」
★15畳の会見場に報道陣40人殺到
黒木の会見は前日11日の夜に急きょ、設定された。この日、東麻布にある所属マネジメント会社の会見場には15畳ほどのスペースに、40人近い報道陣が殺到。本人は「マリンスタジアムで育ててもらった」と本拠地への愛着を口にしていたが、会見担当者は「もうロッテとは関係がなくなったので…」と経緯を説明した。
★その時
現役引退を表明した黒木に、ともにロッテを低迷期から支えた42歳のベテラン・小宮山がエールを送った。
「彼(の野球人生)は良かったときと、悪かったときの差が激しかった。そういう経験は大きい。将来、もし指導者として戻った場合も強みになる」と今後の活躍に期待。また、去就について相談を受けていたことも明かし、「最後は自分で決めなさいと話していたからね」と黒木の決断を支持した。
さらばジョニー。ありがとうとしか言えない。