「歌は我が子」渡辺真知子が語る音楽人生
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延長戦の末に勝利がかなわなかった応援スタンドは、失望の色を濃くしていた。昨年7月3日、ロッテはオリックスに3-4で敗れた。午後10時半を過ぎて“出番”が回ってきた渡辺は、力強く千葉マリンスタジアムの芝生に駆け出す。そして「かもめが翔んだ日」を歌い上げた。
同曲は昨年3月からロッテの応援歌としてホームゲームで流れているが、本人が球場で披露するのはこの日が初めてだった。
「その日はゲストで呼んでいただいて、私もモニターにかじりついて見ていたんですけどね。もちろん、勝って歌うのが一番だけど、マイナスの空気をせめてフラットにできれば、と出させてもらいました」
“負けたからこそ歌が必要”。パワフルに熱唱すれば、波動が伝わるように大声援と手拍子が観客から返ってきた。
「あの時は体の中が熱くなりましたね。ロッテファンの方も、『負けたけど明日も行くよ!』って感じがあって、私も同じ気持ちになれた。パ・リーグって試合運びが粘り強いでしょ。打たれ強くてしぶとい感じが自分と重なったのかな。私だって勝ってばかりの人生じゃないですから」
昭和52年のデビュー曲「迷い道」は大ヒットした。♪現在、過去、未来…曲がり道くねくねの名フレーズそのまま、渡辺も試行錯誤の連続だった。
「歌手として出だしが非常に好調で、新人賞も取らせてもらったテンションの中でまた曲がヒットして…。右肩上がりじゃなくて、いきなり真上にガーンと行っちゃった感じですよね」
普通の女の子があっという間に一流アーティストになっていた。
「自分の身を守るために頑丈なベンツに乗って、家も手に入れて…。20代前半で多くの物を手に入れたから、20代後半はしんどかった。『渡辺さんだったらこのくらいの曲は書ける』と常に言われちゃうのもね。ハードルが高すぎました」
友達と会話しても、価値観や金銭感覚が合わなくなっていた。曲を生み出すプレッシャーで円形脱毛症にもなった。
「一度知ってしまった高い位置から、自分をどうやってフラットに戻すか苦しみました」
ある日、友人が言った。「一度出ちゃった杭なら、思い切り出すぎちまえ。大木になれば誰も打てまいよ」と。
「それを聞いて、どうせなら夢は大きく最後まで行っちゃおう!と思った。私の先はまだ長いんだからって」
32歳で単身、米アリゾナへ。「一度、全部を取り上げてシンプルに生きたい」と砂漠の地を選んだが、異国でも歌手の自分を再確認した。
「語学学校の友達に職業を聞かれて、アルバムを何枚も出していると答えると『ビッグ・アーティストだ』と言われて…。アリゾナでもゼロの自分にはなれないんだ、と全部を素直に認めることができました」
帰国すると精力的に活動した。マネジャーと2人で“巡業”に励んだ。
「35歳から約8年、有線(放送)はじめいろんな場所を自分で回りました。有線の人も『本人だ』とびっくりしていたけど、私としては誰もやっていないことだからやってみようと思いました」
有名になった後の下積みは必要不可欠だった。
「順序は確かに違うけど、40歳を過ぎて後ろを振り返った時に、若いころの空白が自然と埋まって全部がつながっていたんです。ようやく新人賞をもらってよかった、と心の底から感謝できた」
51歳になった今、「かもめが翔んだ日」をリアルタイムで知らない世代が口ずさんでくれる。
「7月にマリスタに呼ばれた時、小学校2、3年の男の子が私の前でおしぼりをマイクがわりに『かもめ』を歌ってくれたんですよ。めちゃくちゃかわいかったぁ」
歌手デビューする時、今は亡き母に「子供を持った私は幸せだったから、いつかは結婚してほしい」と言われた。
「結婚は40歳までにと母に言われたけど、タイミングが合わなかったですね。でも、歌は私の我が子同然。だから小学生の子が自分の歌を歌ってくれる姿は、子供同士が遊んでいるような母のうれしさを覚えますよ」
歌手31周年を迎える今年は、亡き両親への愛を込めて作った「それでもI Love You」を全国の結婚式で地道に披露していきたい、とプランを立てている。
「だって、私はまだまだ子供を育てないといけないんです!」
渡辺母さんの“子育て”は現在進行形だ。
★ゲスト出演
20日開催の第32回サンスポ千葉マリンマラソンでは、午前8時20分から千葉マリンスタジアムで行われる開会式にゲスト出演し、「かもめが翔んだ日」を歌う。渡辺にとって、同球場は切っても切れない存在といえる。同球場を本拠地にする千葉ロッテマリーンズのチームキャラクターがカモメだったことから、昨年3月のオープン戦を機にホームゲームの八回裏に「かもめが翔んだ日」が流れることに。それが縁でロックサウンドにアレンジした同曲の「スタジアム・バージョン」も昨年、新たに収録した。まさにかもめは渡辺の守護神!?
俺たちの真知子www