2007年の風景/「父子」の絆(3)<伊志嶺の長男は自ら命を絶った>
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伊志嶺はその理由を考え続けたが「いまだに分からない。ただ、球太はおばあちゃん子だったから。末期がんと分かったおばあちゃんの、下の世話までもずっとやっていましたからね」。長男ということもあって、当然野球の道に進めたかった。「でも野球に関して言えば、球太は高校野球で終わるレベルだった。球太は音楽の道に進みたがった。それなら、オレは野球で、お前は音楽の道で頂点を目指そうと話し合った」。
目標はお互い納得ずくだった。なのに-。
最初の妻との間に生まれた長男は、伊志嶺が離婚したこともあって、祖母節子に預けられて育った。「子供が成長する大事な時期だったから、(野球に追われて)一緒にいられなかった自分にも問題があった」と考え始める。大嶺祐太(18)も、長男球太も、いずれも祖父母の庇護(ひご)のもとで育った。「それが『祐太をくれ』と言ったこととは直接結びつかないと思う」とは言うが、まるで影響がなかったとは思えない。
だからといって当初、強制的に大嶺を手元に置こうとしたわけではない。伊志嶺は大嶺が中学に入学した折、再度「祐太をくれ」と念押ししている。本人の、物心がついたころを見計らっての念押しのようだ。それは祖父武弘(68)、祖母孝子(63)に対してというより大嶺本人へ、父としての最終確認とも映る。
「この島は女が働いて男を養う、そんな風潮がある。それで生きてゆける。みんなそうなのです。八重山ののんびりした環境に慣れきっている。練習開始時間になっても、定刻に待ち合わせても30分は平気で遅れてきます。石垣タイムですな。祐太に限ったことではありません。八重山の子供たちは素質はあるが、競争意識がないんです」
八重山感覚を捨てさせる。練習中も、試合中もその激しさから選手たちは監督とぶつかり、反抗し、退部騒ぎが起きた。監督1人、選手2人で「甲子園を目指した」時期も一瞬だが、あった。
だが、チームは存続した。「表向きには『監督の言うとおりやってきてよかった』って言ってるでしょ。でも、その舌の根も乾かないうちにぺろりと舌を出していますよ。それでいい。そこまで成長したんです。大人をたぶらかすほどのしたたかさを身につけた。以前はそんなことも思いつかない子供たちだったのです」
大嶺を、さらには八重山商工のナインを「息子」然と接してきたのは、そんな理由からだ。「親がまともに自分の子供を育てられない。石垣島だけの話じゃない。日本国中、そんな風潮でしょう。だからこそ、大人が子供に厳しくならないと」
そして伊志嶺の、何ともユニークな子育てが、大嶺の高校進学を機会にスタートする。
へえ、結構衝撃的だね…。