2007年の風景/「父子」の絆<野球のめり込み黒字倒産も>
|
が、その苦闘を語る前に伊志嶺のこれまでの職歴に触れなければならない。八重山農林高から沖縄大に進学したものの4年の2学期で中退し、その年の暮れ、石垣島へ戻ってきた。結婚し、長男球太(享年20)も生まれた。しかし、生計を立てるはずの職業は定まらない。臨時工、スポーツ店、運送業、内装業、生花店など表面的に見る限り、その職業選択には何ら脈絡がない。就職の条件は「好きな野球ができる時間をひねり出せる」仕事だけに絞られていたからである。だから都合が悪くなると2、3年周期で転々とした。
とりわけスポーツ用品店「毎日スポーツ」を経営した82年当時、伊志嶺は「売り掛けを回収しないまま、黒字倒産」を経験している。「八重山の人間はシャイでね。商品を売ったものの代金回収となるとなかなか言い出せなくって。自分の仕事に代償を求めないというか」。今でこそ厳しさと規律を強調する、まるで本土人のような男だが、当時は彼自身もまたのんびりした八重山体質にどっぷりとつかっていた。「野球がやりたいのに経済的理由でできないのはかわいそう」と店の売り上げを野球部の用具代として提供したこともあった。その揚げ句の破たんで、野球にのめり込む生活は結婚生活にピリオドを打ち、長男を失う引き金にもなった。
28歳で離婚、30歳で再婚した。「10代、20代は野球だけ、30代も好きな野球に打ち込んだが、2度目の結婚ぐらいから自分の気持ちを殺すことを覚えた。金もうけをして、いい生活をして、家も建てた」が、またしても「自分のわがまま」から35歳で離婚をすることになる。
しかし、ここから伊志嶺の人生が急展開してゆくから不思議である。40歳になった94年、少年野球チーム「八島マリンズ」監督に就任。さらに中学硬式野球チーム「八重山ポニーズ」を経て、03年2度目の八重山商工監督に就く。そして甲子園。「とりわけ甲子園に行ったことで、こんなに自分の周辺が変化するのか、恐ろしい」ということになる。
その急展開のきっかけがまたしても「職業」だった。92年、伊志嶺は石垣市とゴミ収集業者としての雇用契約を結ぶ。当初は役所から与えられた回収車に乗り込み、担当地区を回った。「なにしろ朝8時半から午後1時には仕事が終わる。その他の時間は野球ができる」。またしても野球、である。
「与えられたのは、ボロボロの4トン回収車でね。よくエンストはするし、15年も走ってやっと一昨年廃車になった。でも、商売という商売にことごとく失敗した揚げ句につかんだこの仕事。手放すわけにはゆかなかった。だから車のことでも文句をいうこともできなかった」。が、そのボロボロの回収車が伊志嶺と大嶺「親子」の葛藤(かっとう)を演出する。
「それは大嶺が高校受験に失敗したからなのです」。
なるほど…。結構苦労人なのね。