日めくりプロ野球10月
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95年は「がんばろうKOBE」の年だった。1月17日に発生した、阪神淡路大震災。復興と勇気のシンボルが、前年「振り子打法」でブレイクしたイチローを擁するオリックスブルーウェーブだった。前身の阪急ブレーブスの84年の優勝以来、11年ぶりのパ・リーグ制覇を果たしたが、そのオリックスの地元神戸での胴上げを阻止したのが、10年ぶり2位となったロッテ。メジャーリーグの“退場王”こと、ボビー・バレンタインが監督に就任し、9年連続Bクラスのチームに新風を吹き込み、9月15日からの最後の3連戦で3連勝してみせた。
35歳の若さででテキサス・レンジャーズの監督に就任し、大リーグ通算585勝(当時)。日本では元巨人の助っ人デーブ・ジョンソン内野手がニューヨーク・メッツの監督時代に三塁コーチャーとして参謀役を務めたことで一部の野球関係者には知られていた。メジャー指揮官経験者という大物を引っ張ってきたのは、日本初の球団ゼネラルマネジャー(GM)となった広岡達朗元西武監督だった。
バレンタインが日本人の監督と大きく違ったのが、選手を“その気”にさせることだった。エース格の小宮山悟、伊良部秀輝投手には調整を独自に任せ「彼らが投げる日は安心して攻撃に専念できる」などと称讃。この年打率3割9厘でリーグ2位となった堀幸一内野手には「日本一エンドランのうまい選手」などとほめちぎった。
序盤こそ最大で借金11、首位オリックスと13ゲーム差の最下位に低迷したが、バレンタインを信奉するメジャーの首位打者フリオ・フランコ内野手を4番に据えて打順を定着させると、勝負どころで活躍。先発投手を小宮山、伊良部らを中心に5人で回し、4年目の河本育之、3年目の成本年秀の左右ダブルストッパーで締めるという継投パターンが確立。8月29日に2位まで浮上し、チーム内には小宮山をはじめとするボビー野球の信奉者が相次いだ。
しかし、この男と見込んでバレンタインを連れて来た広岡GMが、納得していなかった。徹底的に練習することで選手を鍛えることを主張したGMに対し、「試合前の練習はバッティングのみ。過度の練習は選手の体力を消耗する」と主張するバレンタインは開幕直後から衝突。シーズンに入ると、GMが選手に個別指導する姿がグラウンドで見られた。
6月にGM-監督のトップ会談が行われ、バレンタインが「オレに任せてほしい」と強く出た直後からロッテは快進撃を続けたが、広岡GMとの関係は修復しなかった。
9月20日、千葉マリンスタジアムでの日本ハム最終戦の試合前、監督抜きでGMが選手を緊急招集し、監督退団を告げるという事態にまで関係は悪化。バレンタインは続投の意思を示し、観客動員が前年比19万人も増えたファンの間には球団のやり方に不満を抱き、署名活動まで行ったが、球団は10月17日にバレンタイン監督の解任、江尻亮ヘッドコーチの監督就任を発表した。退団時にバレンタインが1億円以上の“慰謝料”を要求したと球団首脳は明らかにしたが、真相ははっきりしない。
翌96年、ロッテは5位に逆戻り。「バレンタインを追い出した」とのレッテルを貼られた江尻監督は1年で辞任。同じく大洋OBの近藤昭仁前横浜監督が新監督となった。広岡もわずか2年でGM職を追われることになった。選手のGM不信に球団トップが決断したものだった。
米国に帰り、メッツの監督を経てバレンタインがロッテに復帰したのは、それから9年後の04年。05年には31年ぶりの日本一をロッテは勝ち取った。「10年前に、私を日本に連れて来てくれた広岡さんに感謝する」と話したホビーの言葉は本心なのか、それともまだ恨みを忘れてないのか。
この年から俺もロッテファンになったんだなー。